「子の自殺は親の責任」 

(B記)

小紙487号では、今年を振り返る。キーワードを探したら「自殺」に辿り着いたが、とてもじゃないが小紙のネタにはなり得ない。

印象的だったのは、中谷歩さんを殺し、自殺した山口高専の藤村元紀さんの自殺。自殺したからといって殺人の罪が消える訳でもないが、小生的には、唯一“許せる自殺”だった。

許せないのは、子どもたちの自殺。洋々たる未来があるのに、自ら命を絶ってどうするんだ。

小生、人が自殺するとき、その原因を探る行為ほど愚かしいことはないと思っている。病気苦や借金苦、いじめられたから…。冗談じゃない。「死にたかった」からだ。

「死にたい」という欲望は、人間だけが持ち得るもので、それはそれでとても“人間らしい”ものだ。が、行使できるのが一回だけしかないからとても、“貴重”なもので、易々と行使するものでもない。何よりも、「生きたい」という本能の方が常に勝っているからだ。

「あの子にいじめられた」「いじめに対し、学校が無策だった」…。自殺は他殺なんかじゃない。“犯人”なんている訳がない。犯人探しをもしするなら、やっぱり親でしょう。親が愛情を注いでいたら、子どもは自殺などする訳がない。

「子どもがいじめられているなんて知らなかった」なんてことは理由にならない。それは、愛情が少なかったから。愛していれば、どんな些細な変化にも、親なら分かる。“人の気”はそれくらい鋭いものだ。