日本語の乱れが叫ばれて久しい。美しき良き日本語が、伝承されていかないのは寂しいが、言葉というものが生き物である以上、ある程度の変化は止むを得ないと思う。祖父母の言葉も平安時代や江戸時代の日本語とは程遠い。

さて、最近やり玉に上がっているのは《ら抜き言葉》と言うやつだ。近頃の若者は「食べられない」「見られない」などを「食べれない」「見れない」と《ら》を抜いて話す。これはけしからん、由々しき問題であると国会にまでのぼった。

《ら》を抜いたぐらいで何を驚く。平針では大昔から《ら抜き》なんて当たり前。助動詞「られる」は、未然形について可能を表わし、主に否定形として用いられる―とあるが、そんなことかまっちゃいられない。平針では未然形に「へん」をくっつければ「出来ません」関係はほとんど用が足りてしまう。つまり、「やれーへん」「出来ーへん」「食べれーへん」である。「へん」の替わりに「せん」でも可。「見れーせん」のように使います。

また、「出来ません」関係を言う時に平針の人は「いかんわ」をよく付けます。この場合は伸ばしたり引っ張ったりせずに「わからんでいかんわ」「食べれんでいかんわ」のようになります。ようやらん事に対しては、その場でちゃんと遺憾の意を表わす―何という美風、しみじみする言語習慣であります。

さて、ようやらんに対し「やらない」というキッパリとした否定の意思を表わす場合の平針助動詞は「しん」。「やらしん」「行かしん」のように言います。

しかし、ここでも抜かし、伸ばしの法則が他国人をして混乱せしめるのです。「やーしん」だの「こーしん」だの「あーしん」だのと言われて誰がわかるというのでしょう。順に、「やりません」「来ません」「ありません」の意味なのですけれど・・・・・・。

とばし、抜かし、引っ張り言葉はまだまだあるが、今度ね!

 

 

 


さっき挨拶に来た人、どなた?」
のような事を平針の人に聞いた場合、知らない時は、

「誰だ、知らん」とお答えになります。

場所をたずねれば

「どこだ、知らん」

物であれば

「何だ、知らん」

前回に引き続き、今回も抜かし言葉の特集であります。

お気付きでしょうか、「か」が抜けているのです。どうして「か」を省略したいのかと質問されても、「なんでだ、知らん」のです。

しかし、音を略したり、変化させて発音する理由は、『言いにくいから』以外にありませんので、きっと言いにくいのでしょう。「か」がにくいわけではありません。『か』に限らず、あ段そのものが不得手なのではないのでしょうか。

平針言語では、「か」の音は「キャー」になり、同様に「な」の音はほとんどが「ニャアー」、「は」は「ヒャアー」、「ま」は「ミャアー」、「ら」は「リャアー」と発音されています。言いにくい音はできる限り使わないことにしているのではないでしょうか。多分そんなところだと思います。

「ら抜き」「か抜き」ときて、もうひとつ「う」の音も平針弁は嫌います。

「まぁ、おらがたのオトトなんか、わやだでいかんわ。ホキ持ってちゃんばらやるわ、相手かまわんとスモ取るわ、ドジョつかまえて女の子にホリ投げるわだでよぉ。ほんで、金くろのヨがある時だけひっついてきやがるんだわ。ソカソカなんて言っとれェへんでいかんわ」

上の文中カタカナ部分がウ抜き言葉です。順に弟・ほうき・すもう・どじょう・放り・用・そうか、であります。いずれもオ段の次に来る「ウ」を抜かしています。きっと王子様はオジサマ、王様はオッサマと言いたいのでしょうが、これ以上の混乱を招かないように平針人はこらえているのです。

そのかわりに、工場(コウバ)をコーバ、公立もコーリツのようにひっぱって何とか、つじつまを合わせています。何だか、現代の若者の言葉に似ていませんか?

発音しにくい理由について、例えば東北弁などは寒冷地なので大きい口を開けると、冷たい空気が入りこむからあのようにこもったようになったのだ、という説明がつけられていますが、このおだやかな風土の中では類似の理由が見当たりません。

「とろっくっさい、やめとこみゃあか」
で、言葉を変化させていった・・・・・・そのあたりが一番納得がいきます。

無理をしないで自然体、おっとり大人物の平針のお年寄り達を見ていると、ホントにしみじみそう思います。