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「きんのう、かかととんもへいったらげんげがうんとこしょおさいて、どんぼちにうけすやだまぐつがおったぎゃ。ぬくうなったなあ」 これがパーフェクトに解かる人は100パーセント平針人。 解読しますと、「昨日、妻と田圃へ行ったら、レンゲがたくさん咲いていて、小さな池にはメダカやオタマジャクシがいたんですよ。暖かくなったものですね」となります。難しいですね。語尾をミャアーミャアーさせたぐらいではとてもじゃないが、平針弁にはならないのです。たんぼ、とんもは何となくのニュアンスで解かるような気がしますが、 小さな池=どんぼち めだか=うけす オタマジャクシ=だまぐつ などは、どうしてそう言うようになったのかはもちろん、類似の言葉もみあたりません。また非常に無口な人も『だまぐつ』と呼んだりします。余談ですが、九州の一部の地方ではカボチャのことをボウブラと呼びます。瓜科の植物のことですから棒にブラブラしてるからかなァくらいに思っていましたが、さにあらず。ボウブラとはポルトガル語から転化したものだったのです。しかしここは平針。外来語の転化はまず、考えられないと思います。 さて次に、「庭のぐろがばばいで、ごを集めすと思ってきゃあとったら、くちなわが出てきたもんでいわしてどうまんに放り込んだわや」はいかがでしょうか。 これは、「庭の隅が汚かったので、松の枯れ落ち葉を集めようと思って掻き集めていたら、蛇が出てきたので、やっつけてびく(魚を入れるかご)に放り込んだのですよ」という意味になります。 ご=枯れ松葉 実はこれは大和言葉でありまして、宇津保物語にもみられますし「ごをたいて手拭いあぶる 寒さかな」のように芭蕉の句にも詠んであります。 ぐろ=隅っこ これも畔(あぜ道のアゼ)と書いて「くろ」と読ませる古語からきているのだろうし、 どうまん=びく は胴丸やら唐丸と呼ばれた竹の籠からきてるわけです。平針ではこの竹籠のことを「へんてこ」ともよびますがへんてこですね。 いかがですか、なかなかエレガントな気分がしてきましたでしょ? 平針のおじいさんやおばあさんは、古典の世界を現代に伝えているのです。 だから、「おっかさん、平針弁丸だしだがや、恥ずかしい」などと息子や娘が非難したって「へ」とも感じないで良いのです。がんばろうね。 |

「世が良うなったで楽になったじょオ」 とお年よりは、昔に比べて暮らしぶりが良くなったことを喜んでいますが、昔としたところで、根雪に閉ざされたり、水に泣かされたりしたわけではなかったのだから、平針はまずは「豊かな農村」といったところだったんでしょうね。おまけにここは街道筋宿場町。何かと活気に溢れ、微細ながらも産業だってあったんです。こうした経済的裏づけが、平針の人間をかくも元気いっぱいの人物に育て上げたのだろうと推察されます。 表現に何のはばかりもなく、大言壮語と言えば悪口になりますが、なにしろ気宇壮大。比喩がオーバーで、そのくせユーモアとウイットに富んでいるので憎めず、お下劣な単語をポンポンと並べるわりには下品ではないという、まことに不思議な大人物がそろっています。 「とうきゃあが、屁をこいたら匂ってけつかる所に建ったもんで、便利になったぞよォ」これは東海銀行がすぐ近くにできたのを喜んだ、さる旧家のおばあさんのお言葉であります。 「屁」がでたところで「クソ」。クソは大便を表わす他に、罵りまたは強調の接頭語なのですが、平針弁においては使用頻度が実に高く、 「つきゃあに出しても、ちょっともきゃあてこやがらん。あのクソ坊主、何やってけちゃがるか。まったく、クソのふたにもならん奴だ。クソだあけ」 のように使われているようです。ここまでののしられると、立ち直れないような気になるのですが、その実 「お使いに行ってもらったのにあの子遅いわねェ。困ったわ、あのノロマさん」 程度のニュアンスで言っているだけなので、そう心配することはないのです。 「馬鹿みたいなこと」も「クソみたいなこと」となります。「クソ」はこくのですが、平針ではクソ以外にも色々コキます。「おうじょう」は全国的にコキますが、嘘も平針ではつかずにコキますし、居眠りもついでにハッタリもコキます。疲れたり、がっかりした時はスタこいちゃいます。「こく」は「放く」と表現される古語に見られます。こいてこいてこきまくり、スッキリ生きているのが平針人なのではないのでしょうか。 |
